■ 第21話 「地図」
突然元に戻ってしまった右手と声は、宿に戻るまでにすっかり良くなっていた。大丈夫だと言うをよそに、角松はさっさと自分の荷物をまとめてゆっくり休めと一人部屋をに空けてくれた。今晩はどうやって乗り切ろうかと昨晩から思案していたし、体調が悪くなったことは好都合ではあった。風邪かもしれないからと言うと如月も納得してくれたからだ。
は女の姿に戻るとベッドに横になって、異変の原因をじっと考えてみた。やはり転送された際にどこかが故障してしまったのか。それとも、あまり思いたくないが、オーバーホールの時点でなにか欠陥があったのだろうか。どちらにせよ、診断プログラムが働いているはずだ。今後はウィスダムに頼らなければならない場面が多いだろうから、修復したら機能を試してみなければならない。先ほどのすさまじい衝撃を考えると不安だが。
そんなことを考えているうち、ドアがノックされた。
「松下さん。あ、俺一人だ」
「今開けます」と言っては起き上がった。
ドアを開けると角松は滑り込むようにすばやく部屋の中に入ってきた。女性に戻ったアキの姿に若干驚いた様子である。持っていた布の包みを掲げて見せたので、は聞いた。
「なんですかそれ」
「食い物買ってきた。何か食べないとな」
「ありがとう、お腹すごく空いてたの」
は角松の好意が嬉しくて嘘をついてしまった。本当は空気さえあれば生きていける体なのに。
「それで、どうだ」
「すっかり楽になりました。きっと緊張が続いてたからだと思う」
「そうか。明日もこのまま休んで……」
そう言いかけた角松をは遮った。
「いいえ、もう大丈夫」
「でも……」
「いいんです。私も行きます」
は強い気持ちを持って角松の目を覗き込んだ。角松はその気迫をはぐらかすために笑いながら言った。
「松下さん。本当に、あんたはどんな理由があって、俺についてきたんだ」
それを聞いたは満ちていた気迫を急になくし、そっと角松から目をそらしたので角松は包みを開いていた手を止めた。の顔をまじまじと見てから真剣な顔つきになる。
「さん」
そらした目を角松の目線が追ってきているのを感じて、はなお押し黙った。
「あんたが信頼できるのは分かった。だがなぜだ」
「なぜって……」
角松はの肩を両手で掴んだ。女性の姿に戻ったの体では肩をすっかり包み込んでしまえるほどだ。
「俺はすぐに他人の面倒まで見たがる人間だ。松下さんも、きっとそういうタイプの人間だろう。でも面倒見るにはそいつが何か困っているか、命の危険に……」
自分の言っていることの中に重要な言葉が入っているのに気づいて、角松ははっとした。
「命の危険、なのか」
一気に核心に迫る言葉だった。心を見抜かれている気がして、は何も言えなくなってしまった。
「そうなのか」
角松の手に力がこもる。
「ちょっと待ってよ。私そんなの、予言者じゃないんだから」
角松の手が緩んだ。
「分かるわけ、ないじゃないですか」
悪い、痛かったかと手を放し、息切れしたような声で途切れ途切れに角松は言った。
「そうか、そうだな……」
次の日も、その次の日も、角松はがパレードの調査に加わることを拒んだ。それはこちらの体調を気遣ってということだけではないように感じられ、本当のことを打ち明けるべきかとも思われたが、には上手くそれを説明し、角松に信じさせる自信がなかった。
異変があってから、はウィスダムを使えずにいた。あの強烈な頭痛と感覚への恐怖はしばらく消えそうにもない。だがそんな中、にウィスダムの力を試さざるを得ない事態が降りかかった。
パレードの三日前のことである、角松たちは焦っていた。如月の奔走もむなしく、まだ警備の配置が掴めていなかったからだ。朝からと角松は、最後の当てに会いに行っている如月を待っていたが、帰ってきた如月は部屋に入るなり首を横に振った。
「この警戒振りだ。裏にも情報があまり漏れてこないらしい」
壁に寄りかかって言う如月の声にも焦りがみられる。配置図を見下ろして角松は苦い顔をしていたが、やがて思い立って如月に言った。
「情報提供者に会って直接聞きたい」
「だめだ」
角松の申し出に如月は即答した。
「表の人間を連れて行くわけにはいかない」
「だが、そうも言ってはおれんだろう」
如月は壁に寄りかかるのをやめた。二人がにらみ合う。不穏な空気に居づらさを覚え、はわざと顔をテーブルに近づけて地図を覚えるのに真剣な振りをした。本当は見た瞬間に補助脳に記録されているのだけれど。
「あ、あれ?」
と、地図とにらめっこしていたは首をかしげた。そんなを気に留めず、角松と如月は見えない火花を散らしている。
「情報屋の世界にはそれなりの約束事がある。分かってほしい」
「聞くだけだ」
はというと、地図を持ち上げてしげしげと見つめ、
「ん? ありゃあ……」
と変な声を出した。これには如月がちらっとそっちを見た。
「松下がまたおかしい」
「そこをなんとかして欲し、え?」
椅子から立ち上がり、は声を上げた。
「おお!」
「「何してるんだ」」
ついに二人はに聞いた。待っていましたとばかりには町の地図を持って二人の間に入る。
「あ、あの」
「なんだ松下さん」
不機嫌そうに角松が聞いた。
「この地図、間違ってますけど」
「え」
角松はから地図を取り上げて覗き込んだ。
「どこだ」
「ここ。路地が一本多いです。それとちょっと細かいですけど、大通りから繋がる路地にこんな角はありませんでした」
「よく覚えてるな。松下さん、外を歩いたのは二回ぐらいだろ」
「覚えるのだけは得意なんです」
写真記憶かと驚く角松の横から手を伸ばして、如月は角松から地図を取り上げた。
「間違いないか。確かな筋のものだぞこれは」
如月はを一瞥して言った。そのように言われて黙っていられる性格ではないと、はセーブしていたものを吐き出した。
「それだけじゃないんです。このまえ行った食堂、地図にも載ってますけどこれじゃ大きすぎです、駅からの線路だってこんなに曲がってませんよ。そもそも! 大通りの西と東で微妙に縮尺が違うんです、だからこんなずれが起きてるんですよ、見てて気付きませんか」
角松はここぞとばかりにの意見に同意した。
「そんなに違うのか。これじゃあここぞというときに支障が出るな」
「脱出経路も見直さないと!」
「おう。草加に出会ったが道に迷うなんてごめんだ、この地図のせいで!」
「そうです、憎たらしい地図です!」
「誰が作ったこんなもん!」
「……ロウという中国人だ」
如月は降参だというふうにため息をついて、
「わかった。文句を言うついでに、もう一度情報提供者に会いに行こう」
支度しろと如月が付け加えると、角松は一瞬なんのことか分からないという顔をしたが、
「お、おお」
と慌てて上着を取りに行った。如月はのほうを向いていつもの皮肉めいた笑い方をする。
「ありがとうございます」
がそう言うと、如月は取り上げた地図を折りたたんで、おい帽子がないぞとあたふたしている角松には聞こえないように言った。
「なかなか優秀じゃないか」
「え? ああ、記憶力だけは自慢です。それより、いいんですか? 私たちを連れて行っても」
「言い争いは苦手でね、角松さんには最初から勝てる気がしていなかった。そこにいい具合に茶々が入ったと思ったんだが」
如月という人間は相手が駒に触れると同時に次の一手を打つような人間だと思っていたのだが、意外にも彼のペースを崩してやれたことを知って、は少し満足感を覚えた。
「すみません茶々にならなくて」
如月は手に持った地図をパンパンと叩いた。
「こいつをネタに角松さんがまたうるさくしそうだったからな。今回はこっちが折れておくさ」
「潔い判断ですね」
が声を殺して笑っていると、如月はもう一度皮肉っぽい笑みを作って、今度は本当に角松には聞かれたくなさそうに小声で言った。
「言っておくが、奴らは初めて来た人間には何も言わん。早めに切り上げるぞ」
次の一手はすでに指されていた。は、如月の思考がひょっとして自分の電子頭脳にも匹敵するのではないかと思った。
「よし行こう」
角松がやっと帽子を探し出して戻ってきて、三人は部屋を後にした。ホテルを出てタクシーを捕まえる如月を見ながら、は考えていた。今日は実のある話が聞けそうにもない。それなら今夜、自分で調べよう。ウィスダムを使って。
そもそも最初から、はその情報提供者に期待などしていなかった。
は女の姿に戻るとベッドに横になって、異変の原因をじっと考えてみた。やはり転送された際にどこかが故障してしまったのか。それとも、あまり思いたくないが、オーバーホールの時点でなにか欠陥があったのだろうか。どちらにせよ、診断プログラムが働いているはずだ。今後はウィスダムに頼らなければならない場面が多いだろうから、修復したら機能を試してみなければならない。先ほどのすさまじい衝撃を考えると不安だが。
そんなことを考えているうち、ドアがノックされた。
「松下さん。あ、俺一人だ」
「今開けます」と言っては起き上がった。
ドアを開けると角松は滑り込むようにすばやく部屋の中に入ってきた。女性に戻ったアキの姿に若干驚いた様子である。持っていた布の包みを掲げて見せたので、は聞いた。
「なんですかそれ」
「食い物買ってきた。何か食べないとな」
「ありがとう、お腹すごく空いてたの」
は角松の好意が嬉しくて嘘をついてしまった。本当は空気さえあれば生きていける体なのに。
「それで、どうだ」
「すっかり楽になりました。きっと緊張が続いてたからだと思う」
「そうか。明日もこのまま休んで……」
そう言いかけた角松をは遮った。
「いいえ、もう大丈夫」
「でも……」
「いいんです。私も行きます」
は強い気持ちを持って角松の目を覗き込んだ。角松はその気迫をはぐらかすために笑いながら言った。
「松下さん。本当に、あんたはどんな理由があって、俺についてきたんだ」
それを聞いたは満ちていた気迫を急になくし、そっと角松から目をそらしたので角松は包みを開いていた手を止めた。の顔をまじまじと見てから真剣な顔つきになる。
「さん」
そらした目を角松の目線が追ってきているのを感じて、はなお押し黙った。
「あんたが信頼できるのは分かった。だがなぜだ」
「なぜって……」
角松はの肩を両手で掴んだ。女性の姿に戻ったの体では肩をすっかり包み込んでしまえるほどだ。
「俺はすぐに他人の面倒まで見たがる人間だ。松下さんも、きっとそういうタイプの人間だろう。でも面倒見るにはそいつが何か困っているか、命の危険に……」
自分の言っていることの中に重要な言葉が入っているのに気づいて、角松ははっとした。
「命の危険、なのか」
一気に核心に迫る言葉だった。心を見抜かれている気がして、は何も言えなくなってしまった。
「そうなのか」
角松の手に力がこもる。
「ちょっと待ってよ。私そんなの、予言者じゃないんだから」
角松の手が緩んだ。
「分かるわけ、ないじゃないですか」
悪い、痛かったかと手を放し、息切れしたような声で途切れ途切れに角松は言った。
「そうか、そうだな……」
次の日も、その次の日も、角松はがパレードの調査に加わることを拒んだ。それはこちらの体調を気遣ってということだけではないように感じられ、本当のことを打ち明けるべきかとも思われたが、には上手くそれを説明し、角松に信じさせる自信がなかった。
異変があってから、はウィスダムを使えずにいた。あの強烈な頭痛と感覚への恐怖はしばらく消えそうにもない。だがそんな中、にウィスダムの力を試さざるを得ない事態が降りかかった。
パレードの三日前のことである、角松たちは焦っていた。如月の奔走もむなしく、まだ警備の配置が掴めていなかったからだ。朝からと角松は、最後の当てに会いに行っている如月を待っていたが、帰ってきた如月は部屋に入るなり首を横に振った。
「この警戒振りだ。裏にも情報があまり漏れてこないらしい」
壁に寄りかかって言う如月の声にも焦りがみられる。配置図を見下ろして角松は苦い顔をしていたが、やがて思い立って如月に言った。
「情報提供者に会って直接聞きたい」
「だめだ」
角松の申し出に如月は即答した。
「表の人間を連れて行くわけにはいかない」
「だが、そうも言ってはおれんだろう」
如月は壁に寄りかかるのをやめた。二人がにらみ合う。不穏な空気に居づらさを覚え、はわざと顔をテーブルに近づけて地図を覚えるのに真剣な振りをした。本当は見た瞬間に補助脳に記録されているのだけれど。
「あ、あれ?」
と、地図とにらめっこしていたは首をかしげた。そんなを気に留めず、角松と如月は見えない火花を散らしている。
「情報屋の世界にはそれなりの約束事がある。分かってほしい」
「聞くだけだ」
はというと、地図を持ち上げてしげしげと見つめ、
「ん? ありゃあ……」
と変な声を出した。これには如月がちらっとそっちを見た。
「松下がまたおかしい」
「そこをなんとかして欲し、え?」
椅子から立ち上がり、は声を上げた。
「おお!」
「「何してるんだ」」
ついに二人はに聞いた。待っていましたとばかりには町の地図を持って二人の間に入る。
「あ、あの」
「なんだ松下さん」
不機嫌そうに角松が聞いた。
「この地図、間違ってますけど」
「え」
角松はから地図を取り上げて覗き込んだ。
「どこだ」
「ここ。路地が一本多いです。それとちょっと細かいですけど、大通りから繋がる路地にこんな角はありませんでした」
「よく覚えてるな。松下さん、外を歩いたのは二回ぐらいだろ」
「覚えるのだけは得意なんです」
写真記憶かと驚く角松の横から手を伸ばして、如月は角松から地図を取り上げた。
「間違いないか。確かな筋のものだぞこれは」
如月はを一瞥して言った。そのように言われて黙っていられる性格ではないと、はセーブしていたものを吐き出した。
「それだけじゃないんです。このまえ行った食堂、地図にも載ってますけどこれじゃ大きすぎです、駅からの線路だってこんなに曲がってませんよ。そもそも! 大通りの西と東で微妙に縮尺が違うんです、だからこんなずれが起きてるんですよ、見てて気付きませんか」
角松はここぞとばかりにの意見に同意した。
「そんなに違うのか。これじゃあここぞというときに支障が出るな」
「脱出経路も見直さないと!」
「おう。草加に出会ったが道に迷うなんてごめんだ、この地図のせいで!」
「そうです、憎たらしい地図です!」
「誰が作ったこんなもん!」
「……ロウという中国人だ」
如月は降参だというふうにため息をついて、
「わかった。文句を言うついでに、もう一度情報提供者に会いに行こう」
支度しろと如月が付け加えると、角松は一瞬なんのことか分からないという顔をしたが、
「お、おお」
と慌てて上着を取りに行った。如月はのほうを向いていつもの皮肉めいた笑い方をする。
「ありがとうございます」
がそう言うと、如月は取り上げた地図を折りたたんで、おい帽子がないぞとあたふたしている角松には聞こえないように言った。
「なかなか優秀じゃないか」
「え? ああ、記憶力だけは自慢です。それより、いいんですか? 私たちを連れて行っても」
「言い争いは苦手でね、角松さんには最初から勝てる気がしていなかった。そこにいい具合に茶々が入ったと思ったんだが」
如月という人間は相手が駒に触れると同時に次の一手を打つような人間だと思っていたのだが、意外にも彼のペースを崩してやれたことを知って、は少し満足感を覚えた。
「すみません茶々にならなくて」
如月は手に持った地図をパンパンと叩いた。
「こいつをネタに角松さんがまたうるさくしそうだったからな。今回はこっちが折れておくさ」
「潔い判断ですね」
が声を殺して笑っていると、如月はもう一度皮肉っぽい笑みを作って、今度は本当に角松には聞かれたくなさそうに小声で言った。
「言っておくが、奴らは初めて来た人間には何も言わん。早めに切り上げるぞ」
次の一手はすでに指されていた。は、如月の思考がひょっとして自分の電子頭脳にも匹敵するのではないかと思った。
「よし行こう」
角松がやっと帽子を探し出して戻ってきて、三人は部屋を後にした。ホテルを出てタクシーを捕まえる如月を見ながら、は考えていた。今日は実のある話が聞けそうにもない。それなら今夜、自分で調べよう。ウィスダムを使って。
そもそも最初から、はその情報提供者に期待などしていなかった。