ツメアカ

■ 第二十話 「故障」

「これが式典の配置図だ」
 部屋の机の上に広げられた図面を見て、角松は関心仕切りだった。
「さすがだな」
 捜査の方針を転換するとすぐに、如月は角松とを宿において町の中に消えて行った。そして二時間もしないうちに式典の細かい日程や警備の大まかな情報まで持ってきてしまったのである。陸の任務は一人前というのはあながち嘘ではないようだ。
「こんなのどこで貰えるんですか」
 各要人の配置まで書き込まれたその地図に、は見入った。
「情報提供者からだ」
「へえ」
「詳しい警備の配置はもう少し待ってくれ。二日もあれば大体は探れると思う」
「よろしく頼む」
 そう言いながら角松は図面を自分のほうに引き寄せた。国務院の位置から順番に指でなぞって確認していき、
「午後から、実際に歩いてみよう。紙の上だけじゃどうも実感がわかん」
 と言った。
「草加少佐が見張ってるんじゃないですか、パレードに何か仕掛けてくるのなら」
「それで出てきてくれれば、こっちにも都合がいい」
 が心配そうな顔をすると、角松は図面を見たまま言った。
「それは期待できんな、あっちも準備に奔走しているだろう。仕掛けかなにをするにしろ、現地の協力者が必要だ。双方下見をしているところに鉢合わせ、それも確率の低い話だな」
 如月の発言には納得して頷いた。
「あ、そっか。じゃあ捕まえるチャンスは一度ってことですね」
「そうだ。だからこっちも入念に準備する」
 草加が現れるのがパレードだとしたら、それまでは角松の安全が保障される。問題はパレードに草加がうまい具合に現れて、対決するチャンスがきた後のことだ。いったいどういう状況で対面し、角松と未だ見ぬ草加少佐が、どんな話しをし、その成り行き如何によって草加少佐が角松を銃撃するに至るのか、それを自分は知っておかなければならない。
 角松は繰り返し、自分に言い聞かせるように言った。
「準備は、入念に、入念にだ」
 といっても、角松を撃つのが草加ではなかったら元も子もない。は捕物の『入念な』準備が完了するまでに、ウィスダムの予測したあの光景がやってこないことを祈った。
「お茶入れますね。あ、お砂糖あるかな」
「お茶に砂糖入れるのか?」
「中国ではそれが普通ですよ。ね、如月さん」
「やっぱり甘党だな、おん……いやなんでもない」
 別に甘党というわけじゃないんです。「やっぱり女の子だな」と言いそうになった角松を睨みながらは心の中で呟いた。
 午後からはウィスダムにウンと働いてもらわなければ。だから、脳に糖を補給させておくのだ。ん、まてよ、電子回路の自分にはあまり効果はないか。


 式典のパレードまであと六日、国務院前の大通りは変わらず物々しい警戒ぶりだった。屋台や警備兵に怪しまれないようにしながら、角松たちは図面を見ながら当日の各種配置場所を実際に見て回った。
「あそこは皇帝の臣下、その前には関東軍将校、そして皇帝溥儀が壇上に上るらしい」
 三人はちょうど国務院の正面を歩いていた。さすがにここは警備の数が多く、さっさと退散しようと如月は角松たちを促した。だがはそんな如月の配慮を無視して、
「それ確かですよね」
 などと如月にしつこく聞いてしまった。というのも、如月がここは警備が薄いだの、ここには関東軍の将校が集まっているだのと説明してはいたが、はその情報に不安を覚え始めていたからだ。
「当日になって変更になるってこと、ありませんか」
「そういう情報は事前に流れてくる」
「情報規制ぐらいしてるでしょう」
「後にしてくれ」
 が質問を続けていると、如月についに邪魔者扱いされてしまった。これはいよいよ出番だなとは思った。草加少佐という人物がパレードに何を仕掛けてくるのか、本当に何か仕掛けてくるのか、早く明かにしたいのだ。
「このあたりの警備はまだよく分からない。今日中にもう一人の情報提供者に会って、確かめてくる」
 如月の言葉を聞きながら、は例のあれを使うタイミングを計っていた。
「見物には何人集まるんだ」
「ほとんどが日本人だろうが、相当の数は集まると思う。記者とでも偽って、前のほうに陣取ったほうがよさそうだな」
 角松たちは会話に集中している。今だ、は国務院の屋根を見上げて思った。ここでウィスダムを使えばパレードの様子を十分に把握できるはずだ。
 よし。
 意識を集中すると補助脳が機能し始める。ちょうど国務院の上を通っていた雲が、とたんに掻き消えた。角松たちの声が消え、あたりが妙に騒がしくなる。見回すと、見渡す限り人だらけだった。ビジョンを見ている自分も中年の女性に半分埋まっている。この人数は如月の言った『相当な数』どころではない。そしてその大衆の視線は一点に向けられていて、もそれにならって視線を向けた。見えた、台の上に皇帝……
 突然、バリバリッという大きな音が耳の奥で響き渡った。ビジョンにノイズが走り、脳を直接叩かれたような衝撃には声を上げた。自分の周りでひしめき合っていた人々が次々と消え、空は信じられないスピードで雲と太陽が流れている。補助脳の非常ブザーも裏返らんばかりで、大脳にものすごい負担がかかっているのが分かった。そして、
「痛っ!」
 右手に激痛が走ったかと思うと幻影がゆがみ、視界がマーブル状に回転する。
「記者か」
「カメラも用意しよう」
 ぐにゃぐにゃになった映像の中で、どこからともなく角松と如月の声が聞こえた。
「カメラかあ」
「なんならカメラは松下に……どうした」
 それを聴いた瞬間幻影は消えた。頭痛も消え、なんとか倒れそうになるのをこらえて、何が起こったのだろうとは右手を見る。大丈夫、そこには細いが少しぷくっとした手があった。オーバーホールしたばかりで見慣れてこそいないが、なんの異常もなさそうだ……いや違う! 今はこの手であってはいけない! よく見ると手首から先がつなぎ合わせたみたいに不自然に細くなっている。正確には手の部分だけが元の女の姿に戻っていた。は慌てて左腕とそのほかの箇所を確認し、異常が起こっているのは右手だけだということを確かめた。
「見物には何人集まるんだ」
「ほとんどが日本人だろうが、相当の数は集まると思う。記者とでも偽って、前のほうに陣取ったほうがよさそうだな」
 は戻ってしまった右手を左手で握りこんで隠した。左をちらりと伺うと、角松と如月の会話はまだ続いている。
「記者か」
 似合わないだろうなあと角松が言うと、如月は少し笑って、
「カメラも用意しよう」
 と涼しい顔で言った。
「カメラかあ」
「なんならカメラは松下に……どうした」
 如月は振り返ってこっちを見、じっと動かないをいぶかしんだ。は焦りで笑みを凍らせたまま、右手を左腕で隠していた。
「真っ青だぞ、顔」
 角松がのほうへ寄ってきた。
「いいえ、なんでもありません」
「そうか?」
「本当に、大丈……」
 ははっとして口を押さえた。声が裏返ったみたいに高くなっていて、これには角松もぎょっとした。如月に目を向けると彼はこちらを怪しむように見ている。眩暈がした。
 動揺するに、角松はそっと囁く。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない、かも」
 がそう言うと、角松は如月を振り返った。
「いったん宿に戻ろう」

 

 

 

 

 

 

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