■ 第十三話 「猿島の猿」
たちの乗った船は、ウィスダムの予測で見たのとまったく同じ船であった。行き先は満州、最後の皇帝がいたとかいないとか、そんな教科書の歴史をは思い出した。
「角松さん」
は久々の潮風に当たりながら、同じように甲板で海を眺めている角松に話しかけた。角松はの姿を見て一言だけ「手」と言った。
「え?」
が角松の言わんとすることを理解できずにいると、
「普通男は、そんなふうに前で手を組まない」
自分の体を見下ろしたは慌てて腕を体の後ろに持っていった。その姿を見て角松は愉快そうに笑い、また海に視線を戻した。
「あの、どうして私を連れてきてくれたんですか?」
「君が来たいと言ったからだ」
「普通は連れてってくれないでしょう」
は『みらい』を降りてから何も話してくれない角松が、ひどく怒っているのではないかと思っていた。自分が話しかけても、探るようにこちらを見たり、適当に相づちをうつだけだ。
「あ、私の名前なんていうのにしましょうか。男の名前」
「そうだな。松下、明でいいんじゃないか」
「あ、そうですね」
そしてまた沈黙が始まった。はがっくりと肩を落とす。すると角松はしばらく黙って海を眺めていたが、やがてしれっとして言った。
「君が俺の行き先を知っていたからだ」
「え?」
「中国語が話せるかと聞いただろう」
「……あ」
は顔から背中から、嫌な汗が流れるのを感じた。焦るあまりそんな墓穴を掘っていたとは。
「君の目的が知りたくてね。それで連れてきた」
「もも、目的は分かっちゃいました?」
はしどろもどろに答える。
「いいや。これからじっくり探るさ。おい、陸が見えるぞ」
『じっくり探る』と言われて、とてつもない不安を覚えるであったが、
「え、本当!?」
大陸が見えたと言われて、はしゃがないではいられなかった。
大連港の建築が以外にも近代的なもので、は感激し通しだった。
「すごいですねえ。あ、いけない、おのぼりさんみたい」
慌てては前を向いて歩いた。人が多いので角松を見失わないようにするのが大変だ。
「ここで待とう」
一本の柱の前で角松が荷物を置いて、は首をかしげた。
「誰をですか?」
「協力者だ。上海から一人、海軍の人間がつくらしい」
「へえ」
角松が時計を気にして辺りを見回す。もそれらしい人物がいないか、それらしいってどんなものか分からないが、探してみた。するといつの間にか、二人の前にスーツを着て、ズボンに手を突っ込んだ男が立っていた。
二人が何か話しかけようかと迷っているうち、
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうな」
この人はいったい何を言っているのだろう、とはいぶかしんだ。助けを求めるようには角松を見る。角松はぐっと押し黙ったかと思うと、こう答えた。
「猿島に猿は、一匹もいません」
それではじめて、はこれが合言葉なのだと合点がいった。なんだか本当にスパイ映画のようだ。
「帝国海軍中尉、如月です。さあ、行きましょうか」
その如月という男に先導され、と角松は大連港を後にした。タクシーを拾い、大連駅に向かう。角松と如月は後ろの席で何か話していたが、は助手席に座って今は何も言わないことにした。二人の会話の中で、角松が草加と吉村を追っているらしいということが分かった。そして、誰かがつけて来ているという事も。
「尾けられている?」
振り向こうとした角松を如月が制した。
「シーカンズ市場へ」
やはり角松には危険が迫っている。の肌が粟立った。とにかく、いまはこの男に頼るしかないと決めて、入り組んだ路地で止まったタクシーからは二人と一緒に降りた。
「この中国人街ならまきやすい、こっちです」
如月はこの辺地理に明るいようで、どんどん先へ進んでいく。が置いていかれないようにと急いでいると、いきなり角松がの口を塞いで隣の路地に引き込んだ。
「な、何やってるんですか角松さん!」
突然の暴挙には角松の手を振りほどいた。如月の姿はすでに見えなくなっている。
「置いてかれちゃいましたよ!」
「いいんだ」
「え?」
「ここで待っていよう」
角松は自分のカバンを椅子代わりにして座った。その横ではこんな騒ぎだと言うのに少年が一人、せっせとえんどう豆の皮を剥いでいる。
「どうしたんですか。私たち、追われてるんでしょう」
「彼はたぶん偽者だ」
「え?」
「如月という男だ」
「どうしてそんなこと……」
とが尋ねようとしたとき、角松が拳銃を取り出した。が振り返ると、一人の支那服の男が立っていた。
「松下さん、どいてるんだ」
はまじまじとその男を見た。なんとなく線の細い印象の男の手には小刀のようなものが握られている。そこから滴り落ちているものを見て、は「血!」と悲鳴をあげそうになった。
「松下さん、さがってろ」
若干緊迫した声で角松が言った。は言うとおりにしようとしたが、角松の男に向けた拳銃を見て踏みとどまった。この構図はウィスダムの予知が見せたものとよく似ているからだ。見たところ支那服の男は銃を持っていないようだが、どこかに隠し持っているかもしれない。近づいてくる男を見て、は角松と男の間に立ちはだかった。今の体の大きさなら角松の盾になれる。
「止まって!」
「松下さん!」
の行動に角松は面食らった。支那服の男も一瞬立ち止まる。は弾丸をも跳ね返すと言っていた『マロンちゃん』と、自分の特殊合金を信じて目を閉じた。後ろで何か叫びながら角松が立ち上がる気配がする。
撃たれる!
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうね」
と、目を閉じたの耳に、角松のものでも自分のものでもない声が届いて、は目を開けた。
「え?」
無表情の支那服の男が、もう一度言った。
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうね」
「はい?」
男はそれ以上何も言わなかった。
「猿島に、猿は一匹もいません、よ……?」
半ば呆然としながら、は答えた。
「角松さん」
は久々の潮風に当たりながら、同じように甲板で海を眺めている角松に話しかけた。角松はの姿を見て一言だけ「手」と言った。
「え?」
が角松の言わんとすることを理解できずにいると、
「普通男は、そんなふうに前で手を組まない」
自分の体を見下ろしたは慌てて腕を体の後ろに持っていった。その姿を見て角松は愉快そうに笑い、また海に視線を戻した。
「あの、どうして私を連れてきてくれたんですか?」
「君が来たいと言ったからだ」
「普通は連れてってくれないでしょう」
は『みらい』を降りてから何も話してくれない角松が、ひどく怒っているのではないかと思っていた。自分が話しかけても、探るようにこちらを見たり、適当に相づちをうつだけだ。
「あ、私の名前なんていうのにしましょうか。男の名前」
「そうだな。松下、明でいいんじゃないか」
「あ、そうですね」
そしてまた沈黙が始まった。はがっくりと肩を落とす。すると角松はしばらく黙って海を眺めていたが、やがてしれっとして言った。
「君が俺の行き先を知っていたからだ」
「え?」
「中国語が話せるかと聞いただろう」
「……あ」
は顔から背中から、嫌な汗が流れるのを感じた。焦るあまりそんな墓穴を掘っていたとは。
「君の目的が知りたくてね。それで連れてきた」
「もも、目的は分かっちゃいました?」
はしどろもどろに答える。
「いいや。これからじっくり探るさ。おい、陸が見えるぞ」
『じっくり探る』と言われて、とてつもない不安を覚えるであったが、
「え、本当!?」
大陸が見えたと言われて、はしゃがないではいられなかった。
大連港の建築が以外にも近代的なもので、は感激し通しだった。
「すごいですねえ。あ、いけない、おのぼりさんみたい」
慌てては前を向いて歩いた。人が多いので角松を見失わないようにするのが大変だ。
「ここで待とう」
一本の柱の前で角松が荷物を置いて、は首をかしげた。
「誰をですか?」
「協力者だ。上海から一人、海軍の人間がつくらしい」
「へえ」
角松が時計を気にして辺りを見回す。もそれらしい人物がいないか、それらしいってどんなものか分からないが、探してみた。するといつの間にか、二人の前にスーツを着て、ズボンに手を突っ込んだ男が立っていた。
二人が何か話しかけようかと迷っているうち、
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうな」
この人はいったい何を言っているのだろう、とはいぶかしんだ。助けを求めるようには角松を見る。角松はぐっと押し黙ったかと思うと、こう答えた。
「猿島に猿は、一匹もいません」
それではじめて、はこれが合言葉なのだと合点がいった。なんだか本当にスパイ映画のようだ。
「帝国海軍中尉、如月です。さあ、行きましょうか」
その如月という男に先導され、と角松は大連港を後にした。タクシーを拾い、大連駅に向かう。角松と如月は後ろの席で何か話していたが、は助手席に座って今は何も言わないことにした。二人の会話の中で、角松が草加と吉村を追っているらしいということが分かった。そして、誰かがつけて来ているという事も。
「尾けられている?」
振り向こうとした角松を如月が制した。
「シーカンズ市場へ」
やはり角松には危険が迫っている。の肌が粟立った。とにかく、いまはこの男に頼るしかないと決めて、入り組んだ路地で止まったタクシーからは二人と一緒に降りた。
「この中国人街ならまきやすい、こっちです」
如月はこの辺地理に明るいようで、どんどん先へ進んでいく。が置いていかれないようにと急いでいると、いきなり角松がの口を塞いで隣の路地に引き込んだ。
「な、何やってるんですか角松さん!」
突然の暴挙には角松の手を振りほどいた。如月の姿はすでに見えなくなっている。
「置いてかれちゃいましたよ!」
「いいんだ」
「え?」
「ここで待っていよう」
角松は自分のカバンを椅子代わりにして座った。その横ではこんな騒ぎだと言うのに少年が一人、せっせとえんどう豆の皮を剥いでいる。
「どうしたんですか。私たち、追われてるんでしょう」
「彼はたぶん偽者だ」
「え?」
「如月という男だ」
「どうしてそんなこと……」
とが尋ねようとしたとき、角松が拳銃を取り出した。が振り返ると、一人の支那服の男が立っていた。
「松下さん、どいてるんだ」
はまじまじとその男を見た。なんとなく線の細い印象の男の手には小刀のようなものが握られている。そこから滴り落ちているものを見て、は「血!」と悲鳴をあげそうになった。
「松下さん、さがってろ」
若干緊迫した声で角松が言った。は言うとおりにしようとしたが、角松の男に向けた拳銃を見て踏みとどまった。この構図はウィスダムの予知が見せたものとよく似ているからだ。見たところ支那服の男は銃を持っていないようだが、どこかに隠し持っているかもしれない。近づいてくる男を見て、は角松と男の間に立ちはだかった。今の体の大きさなら角松の盾になれる。
「止まって!」
「松下さん!」
の行動に角松は面食らった。支那服の男も一瞬立ち止まる。は弾丸をも跳ね返すと言っていた『マロンちゃん』と、自分の特殊合金を信じて目を閉じた。後ろで何か叫びながら角松が立ち上がる気配がする。
撃たれる!
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうね」
と、目を閉じたの耳に、角松のものでも自分のものでもない声が届いて、は目を開けた。
「え?」
無表情の支那服の男が、もう一度言った。
「横須賀の海は穏やかで、猿島の猿は今日も元気でしょうね」
「はい?」
男はそれ以上何も言わなかった。
「猿島に、猿は一匹もいません、よ……?」
半ば呆然としながら、は答えた。